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豆乃木がなる日 Story of mamenoki 起業後4年

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豆乃木がなる日 Story of mamenoki 起業後4年

こちらは2015年協力隊50周年にあたり、寄稿した文章です。

豆乃木がなる日 Story of mamenoki 起業後4年

ジンバブエでの隊員時代

こちらは2015年協力隊50周年にあたり、寄稿した文章です。
テーマは隊員になるまで、その後の「ビフォー・アフター」

青年海外協力隊としてジンバブエに赴任したときは21歳だった。

ソフトボールの部活動で、アメリカに遠征した高校1年の時に、破顔の笑みでボールを追いかけている同世代のアメリカ人の女の子たちと、日々の練習が苦痛でしかなかった自分自身とを比べて、ひどく落ち込んだことを覚えている。海外への憧れが募ったのはこの頃だったか。

はっきり言って、国際協力にはまったく興味がなかった。というよりも、援助が必要な背景や、そこに付随する仕事があることさえ知らなかった。私は無知で、自分さえよければいいと思っていた。

高校を卒業して、入学した専門学校では、あっけなく挫折して、たった数か月で生まれ育った町に戻った。再び、違う景色が見たくて、なんとか這い上がろうとしていたときに、「青年海外協力隊」の募集広告を見掛けた。海外への憧れを思い出して、私は飛びついていた。

はじめての「途上国」は、残酷で、奇妙だった。盲目の母親の傍らで、歩き始めたばかりで足元がおぼつかない子どもが、肌の色の違いだけを察知してか、私たちに手を差し伸べてくる。はじめて覚えた英語が「Give me money」かもしれない少女の汚れた手。最初は戸惑い、絶望し、そのうち、いつもの景色になっていた。

ソフトボールをしたいと集まった女の子たちは、悪びれることなく、決まって1~2時間くらい遅刻して練習に現れた。最初はストレスでしかなかった待ち時間も、そのうち「そういうもの」になっていった。選手たちはすぐになついてくれた。みんなが家に遊びに来いと私を誘う。どの家も、同じくらいに質素で、子どもが多く、薄暗かった。

よく招かれたのは、4畳半が2間ほどの小さな家。雨音が強くなると、互いの会話がほとんど聞こえなくなるトタン屋根の下に、親戚も含めて10人ほどの家族が暮らしていた。私は、刺繍の施してあるソファカバーのかかった、一番立派な一人掛けの腰掛に通されて、よく食事をご馳走になった。稀に、私のプレートにだけ、一切れの肉が置かれていた。申し訳ないやら、嬉しいやら。選手の母親が、私と同じくらいおぼつかない英語で、一生懸命、日本のことや、私の家族のことを尋ねた。私がジンバブエを離れるときに、日本人の大きな娘に、アマイ(ジンバブエの言葉でお母さん)は手縫いのエプロンをプレゼントしてくれた。

「持っていない」とされる彼らが、「持っている」私たちに、いつもいっぱい与えてくれた。いつか、彼らに恩返しをしたい。その原動力が、私を次なる国、ケニアに向かわせた。

 しかしながら、2度の隊員活動を経ても、私の恩返しは果たされぬまま。3度目の正直で、マラウイへ行ったときに、今の進路を決定づける活動に携わった。それが一村一品運動だった。

一村一品運動は、「地域にすでにあるものに磨きをかけて、地域の誇りとなるような産品をつくり、その一連のプロセスによって人づくりをする」という大分県から生まれた地域おこしの運動である。私はそのコンセプトに共感し、マラウイの担当エリアを、文字通りに縦横無尽に走り回った。そこで出会う生産者グループのリーダーの中には、自分たちの地域資源で、モノを生み出し、四苦八苦しながらも、販路を広げようとする人たちがいた。私は、彼らアントレプレナーの市場調査や販路開拓をサポートする立場でありながら、アントレプレナーシップとは程遠い、守られた生活の中にいる“気まずさ”を拭えなかった。彼らのような「遠くの生産者」とマーケットをつなげる―それが、私が描く「恩返し」の具体的なイメージとなった。

マラウイからの帰国後、私は大学へと進学した。そのとき、28歳になっていて、10も年下の「同級生」と机を並べることになった。

講義は私にとって「答え合わせ」だ。派遣国で直面した現実や、現場での体験は、学者たちの言葉を通して、理論として私の頭にひとつずつ整理され、収納された。そして在学中に、再びつながった、私と「海外」との接点。それが、後の「豆乃木」創業の原点だ。

行き着いたのは、馴染の深いアフリカ大陸ではなく、中米・メキシコ。私が所属した研究室では、2003年より、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者の自立支援活動を行っていたのだ。活動開始当初、学生たちが販路を広げて、マヤ先住民がつくるコーヒー豆は、日本全国で販売されるようになっていたのだが、私が関わる頃には、国内での販売促進の灯は消えていた。唯一、現地での栽培から二次加工のプロセスの改善を目的としたプロジェクトが走っていた。

起業への思いは、日に日に高まっていたものの、何を「飯の種」にするのかの決定打がないまま、卒業が間近に迫っていたある日、静岡でお茶の栽培をする農家さんに出会った。自己紹介の流れで、関わっていたメキシコのコーヒープロジェクトの話をした。私の話を聞き終えると、農家さんは、こう言った。

「作る人にとって、一番嬉しいことって何かわかる?作ったものが、ちゃんとした価格で、いっぱい売れること。それで、おいしいって喜んでもらうっていう、単純なことなんだよ。」

この言葉を聞いたとき、私は、マラウイで抱いた“気まずさ”と共に、援助ではなく、共に汗を流すパートナーへ、と気持ちが固まっていくのを感じた。そうだ、私の手の中には、マヤ先住民の人たちが大切に育てたコーヒー豆がある・・・。それは一村一品運動で言うところの、磨けば光る「原石」のように思えた。

豆乃木を創業して4年。マヤビニックコーヒーは、現在、再び、北は北海道から南は沖縄まで、心あるロースターさんに「選ばれるコーヒー」となった。創業当時は、フェアトレードという正義を振りかざして販売していた時期もあったが、長年コーヒー業を営む方々が、口ぐちに教えてくれた。

「他にも良い豆はいっぱいあるけど、なぜかマヤビニックはたくさんのお客さんに突き刺さる、深く愛される不思議な豆だ。フェアトレードというだけではない、それ以上の何かがある。」

産地を訪ねたときに感じた、足が包み込まれるような土の感触。強い太陽の日差しを遮る大きなバナナの葉。その下で熟した赤いコーヒーの実が、厚みのある生産者の手によって、ひとつひとつ摘み取られる瞬間を見れば、たしかにそれは不思議なことではない。  

もしかしたら、私がメキシコの産地で見た景色を、生産者の姿や思いを、まるごと伝えることができたのなら、「フェアトレード」が単に「エシカルな消費者」だけのものではなく、その先にまで広く浸透するだろうか。そのためにも、生産者らと、一年一年を積み重ね、コーヒーを通して見える世界を、おいしいコーヒーにのせて、毎年毎年、届けたい。そんなふうに思っている。