写真:両親から、誕生日にサプライズのプレゼント
私には、人生で一番幸せな日はいつか、と聞かれたら、はっきりとこの日です、と言えるような日はない。もしかしたら、両親からサプライズでもらったマヤビニックの麻袋の入った額をプレゼントをされた今日かもしれないし、美味しいピザをご馳走になった昨日だったかもしれない。
でも、人生で一番最悪な日がどれか、と言われたら、私は、20年前のある一日を思い出す。悔しくて、かなしくて泣いたあの日のことを。
2000年8月から、私はジンバブエ第二の都市ブラワヨというところでの生活し、青年海外協力隊として、子どもたちにソフトボールを教えていた。
赴任当時、SNSはもちろん、eメールもそれほど普及していなかったこともあり、有り余る時間で、日本の家族や友人、そして世界中に派遣されている協力隊の仲間宛てに手紙を書いていたのだが、伝えたいことが似通っていて、いっそ学級通信のようなものを作ってしまえ、と始めたのが「Dear Mio(澪へ)」というお便りだった。
(今思えば、それが毎月発行している「豆乃木通信」の原点かもしれない。)
ところで、澪は、同級生の中で、誰よりも早く母親になった友人の子どもの名まえ。
当時、1歳になったばかりの澪に、私が見たアフリカを伝える、というコンセプトだったはずなのに、早々に路線変更し、例えば、旅の描写でも、こんな調子に。
***
南アフリカとの国境の町に行ってきた。たった今帰ってきた。ただいま。
もちろんひとりで。
ひとりで乗合タクシー(コンビ)に乗って、荒涼とした土地をぼんやり見ながら車に揺られているっていうのは、それはそれでとてもすてきだと思う。ウォークマンを聴きながら、ただ時間だけがすぎていく。往復9時間、車の中。缶詰のツナみたいに、ぎゅうぎゅうに押し込められた車の中。定員15名のところを22名詰め込んだ車の中。
国境の町には、1時間ほど居ただろうか。
「ジンバの免税店が世界で一番安いのではないか」
とアメリカにしか行ったことがない先輩隊員が言っていたのを思い出し、免税店に入り香水を買った。
「赴任3ヶ月外出禁止令」を頑なに守っている同期隊員に、
「ジンバの免税店ってほんと安かったよ、あっぱれあっぱれ」
と同じくアメリカにしか行ったことがなかった私は語った。
帰り道、そろそろ薄暗くなりかけた頃、私ははじめて、「野生のきりん」を見た。
背丈の低い、頼りない木々の中で「目なんか合わせたくないけんね」と椎名誠風ケンネ的きりんは、窓から体を乗り出して、そいつにラブコールをおくる私に、一切興味がなさそうだった。(実際には、松坂の速球ほどのスピードで走るコンビからは、きりんの表情なんてまったくわからなかった。)
陽が落ちて、外は濃い黒と薄い黒に包まれた。窮屈な殺人的コンビにもとっくに慣れ、そろそろ眠ろうかと思っていると、全開にしている窓から水滴が飛び込んできて、慌てて窓を閉める。まもなくすると、烈火のごとく、空が怒りだしたのだ。世間ではそれを雷と言うはず。
思えばジンバブエに来てはじめての雨だった。
この雷が、巨大な線香花火とかだったらおもしろいのになあ。そんなことを考えていたのははじめだけで、フロントガラスを空振りし続けるワイパーで、視界のはっきりしない前方に、恐怖心しかなく、眠気も忘れて、サイドミラーに映るドライバーの顔を凝視した。
「俺っちこーゆーのぜぇんぜんヘーキ(平気)だもんでさあ」
とその表情は語っていて、それが私をますます不安にさせた。
雨脚が弱まってくると、今度は、隣の、小錦にスカートをはかせたような汗かきのお姉さんが気になって仕方がなかった。スイカみたいな爆弾おっぱいが私のわきの下に食い込んでいる。さっきからずっと。離れようにも、離れようがない。布団圧縮パックでこのお姉さんを圧縮できたら、どんなに平和だろうか。雨で窓も開けられず。本気で酸欠の心配をした。
スイカ爆弾おっぱいがわきの下を定位置としたままコンビは雷雨(カミナリアメ)の中を走りに走り、ブラワヨ愛しき俺の街になんとかたどり着いた。ホステルの明かりが懐かしく感じた。
***
と言う具合に。
本題に戻ると、その「Dear Mio(澪へ)」の中でも、その私の最悪の一日のことが綴られている。
***
財布を盗まれ、無一文になった日、親に心配をかけまいと
「カードをなくしたから、使用できないようにして欲しい」
と金のことには触れず、真夜中の日本に電話をかけた。
眠たそうな声で、ジンバブエに来てから、はじめてかかってきた娘からの電話に戸惑いながら、こんなときになんだけど、と言って、母は、おばさんの死を私に告げた。
数時間前、狂ったジンバブエ人4、5人に囲まれて、有り金全部をすられた悔しさで涙に暮れた私だったが、その瞬間、それよりもはるかに上まわる涙を流しながら、はじめて日本を遠くに感じた。
おばさんが死んだ。
この事実は、数日を経て、今も私の日常に、暗い影を落とす。瞬間瞬間に、元気だった頃と、病気でものを語らなくなってからのおばさんの残影が頭に浮かぶのだ。そのたびに、胸がしめ付けられる思いがして涙が出る。
ひとつの死に、ひとつの命に、鈍感にならざるを得ないこの距離を恨みさえする。私がおばさんの死を知ったのは、亡くなってから一週間もたってからのことだった。
おばさんが、以前のように、大好きなコーヒーを飲みながら、笑って話ができるような、そんな「次の世界」があったらいいな。誰もが、「そこ」に向かって、もがき、苦しむのだから。
私はその日、全財産を盗まれた。金を盗まれるためにその日、その時間が設けられていたと思うと、生きることがたちまち馬鹿らしくなる。
それでも、明日はまた違う一日。そう思ってベッドに入ろう。
おやすみなさい、澪。
***
あれから20年。
その文章の冒頭、
「幼い、生まれたばかりのあなたにどう語っていいのかわからない。
私の22年間でいちばんかなしい一日のおはなしです。」
と記されている。
そこからさらに20年が経つけれど、今でもあの日が私の人生の中で、一番哀しい記憶。
というのは、それ以上に悲しい出来事がなかった、と言うわけでもなく、いろいろな経験を経て、辛いことや哀しいことの乗り越え方や、ポジティブな捉え方を、20年かけて習得してきたのだと思う。
(だけど、人の死には、どうやったって、慣れない。)
澪は、今年、成人式を迎えた。
健康で、やりたいことができて、同時にかなっていない夢もたくさんあって、挑戦し続ける日々が、とても幸せだと感じる。