「町ぐるみ」で国際協力に取り組むイミってなに?
浜松のフェアトレードタウン化に関わっている私たちに、きっとこれからも何度となく寄せられる質問がこれだ。
実際なんなんだろうと、ここ数か月、頭の片隅でつねにその答えを求めてきた。
私がまだランドセルを背負っていた頃、巷で「国際化」という言葉がじわじわと出てきた。その前後で、地域の高校に「国際科」なるものが新設された(調べてみたところ1991年に浜松北高が「国際科」を新設)。
そして、よくよく思い出してみると、私や近所の子どもたちにとっての「国際化」の第一歩は、「英語を習うこと」だった。
小学校4年生になると、週に1回、英語教室に通うことになり、せいこはサンディに、いとこのあつしはアレックスになった。
当時、地方都市では、外国人は珍しかったので、ショートボブの金髪に、深い緑色の目をした、腰回りの大きなバーバラ先生に対して、まったく親しみを感じることができず、1対1の会話のレッスンは、いつも居心地が悪かった。
結局、バーバラには終ぞ馴染めず、サンディもアレックスも、そして肝心の英語もまったく定着することなく、中学にあがる前に私の「国際化」は一旦終了。
その後、わたしは“たまたま”きっかけがあって、アフリカ大陸に一定期間住み着くという、(本人は無自覚ながら)「強烈な体験」をし、いつの間にか、まったく関心のなかった遠くのアフリカさえも、身近に感じることになった。
たしかにこのような体験がなければ、私にとっての「国際化」は、いつまでも英語が話せるかどうか、というところで止まっていたかもしれない。
多くの人が、国際交流や国際協力と自分の生活は、無関係だと思っているし、国際交流はともかく、国際協力は、専門の人(少なくとも「英語が話せる人」)がやるものだと思っている。それに国はともかく、地方で国際協力に予算をつけるのは「お金の無駄」「税金の無駄遣い」と反発する人もいるだろう。
おい、どうなる、国際化!?
と、もはや「町ぐるみ」で国際協力に取り組むイミは一生説けないのではないかと落胆しかけたのだが、日本人の4人に1人はパスポートを持つ時代。海外旅行はずいぶんと身近になった。
私の父は、いわゆるバブルの時代に、慰安旅行で、初めての海外旅行先として香港へ行った。帰国するなり香港で話されている「広東語」の勉強を始め、それはしばらく続いた。
その後、浜松に、多くのブラジル人の「デカセギ」が来て、父も仕事で、彼らと接点ができるようになると、「広東語」の辞書が「ポルトガル語」に変わった。
そしてある日、私たち家族は、ついにブラジル人の家庭に招かれることになったのだ。
近所づきあいこそ希薄ではなかったものの、家族で親戚以外のお宅に招かれ、食事をいただく機会はほとんどなく、まして私たちにとってまるで馴染のないブラジル人の家に行くことに、出掛けることが大好きな子どもだったはずの私の足も、どこかすくんでいた。
普段、小食の父が、食卓に並ぶ肉料理や豆の煮込み、パン、甘いスイーツのご馳走を(戻すのではないか)と子どもが心配するほどに頬張っていた。そして「お前たちもいっぱい食べろ」と子どもたちに何度となく「プレッシャー」をかけ、子どもたちは、とにかくいっぱい食べなければ、と笑顔を失っていた。
デカセギで来ている彼らが、わたしたち家族のためにたくさん料理を用意してくれた、という気持ちに、「残さずに食べる」という形で応えたい、という父なりの「国際交流」。
母は母で、ブラジル人の家庭に招かれたのだから、「色彩の派手な服を着て行かなければ」という激しい思い込みから、自身は、タンスの肥やしになっていた大きな柄の入った赤いシャツを、そして子どもたちは、アロハシャツのようなものを着せられ、出かけたという記憶がある。
ブラジル人の家庭に招かれ、それほど会話も弾まず、でもとにかくいっぱい食べなければと気負っていた杉山家の「派手な服装」だけが浮いていたはずだ。
滑稽だけれど、微笑ましい。
本当は、国際化に英語もパスポートもいらない。
だけど、父にとっての香港であったり、母にとっての赤い服を着た日のような、ちょっとしたきっかけが、多ければ多いほど、国際理解は進み、「国際化」するのだろう。国際化というのは、国を越えた歩み寄り。
この長文が、「町ぐるみ」で国際協力に取り組むイミってなに?の答えから、まだ随分とへだたりがあることはわかっているのだが、なんとなく、今日はこの辺で、「ふむふむ」と着地したい。
続きはまた今度。
こちらもそんな「きっかけ」になれば・・・
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