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わたしのフェアトレード論

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当社では少量から、フェアトレード及び無農薬栽培された
コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

セイコ社長の【ガチ日記】

2020/06/29

わたしのフェアトレード論

フェアトレードというモラルとマナー

わたしのフェアトレード論

明日、静岡文化芸術大学のフェアトレード論という授業に登壇させていただくことになりました。

しかもオンラインです。


オンライン授業、果たしてどうなるでしょうか。



授業は2部構成になっており、

前半では私が携わっている「フェアトレードタウン浜松」の成り立ちや活動、

また私自身の事業について紹介させていただきます。



後半では、事前に先生と相談して、学生に送っているアンケートを元に、学生、先生、そして私の三者でディスカッションを行います。



実は、先ほどまで、学生さんのアンケートを読ませていただいていて、そこで溢れ出した感情やアイデアを急いでまとめたい衝動に駆られ、こうして記事を書き始めました。もうすぐ夜中の2時です。起きられるかな・・・


テーマはこういうものです。


問い)
フェアトレード活動をしていると、「『地域の課題』をさておいて、なぜ海外の支援をするのか」という批判を向けられることがすくなくありません。

みなさんが、フェアトレード活動に関わる当事者だったら、この批判に何と答えますか?




補足させていただきたいのですが、「フェアトレードタウン」の活動に対して、市民に協力を呼びかけたところに、「いや、地元も課題山積ですよ」と言う方がいらっしゃいます。
このような疑問を持つ市民の皆さんに対して、どのような回答ができるか、ということを、厳密には、学生の皆さんにお聞きしたかったのです。

とはいえ、10年前ならともかく、2020年の現在において、このような疑問を抱かれる方がいらっしゃるかどうかは疑問です。
と言うのも、既に私たちは、今回のコロナの件によって、このグローバル時代に「人ごと」の課題など、ないと知っているからです。世界は密接に繋がっています。


そこを前提として頭に置きながら、読み進めてください。


学生の回答

学生さんの回答を集約すると、大まかに次の3つがありました。

1つは、「他国」の課題から「自国」や「地域課題」が見えるからフェアトレードという課題に取り組むべき、という指摘です。

フェアトレードに限らず、課題を一旦、抽象化することで、「自分のこと」として置き換えることは、重要な気づきをもらえるのだと思います。
このような相互学習は非常に意味があります。問題の質は違うかもしれませんが「人のふり見て、我がふり直せ」とはよく言ったものです。


2つ目は、日本の地域の課題といわゆる「途上国」の課題とでは、貧困度合いと緊急性の観点から、「途上国の課題」を優先すべき、という意見です。

ここは、少し議論の余地がありそうかな、と感じています。

話題を少しすり替えるようで恐縮ですが、私も以前、同業者に、「メキシコのコーヒーをフェアトレードしている」というと「でもメキシコはOECD加盟国でもあるし、支援すべき対象なのか」と問われたことがありました。そもそもフェアトレードを一方的な支援とは捉えていないのですが、万事、「貧困度合いと緊急性への対応」のための活動(支援)で、十分と言えるのでしょうか。

物事には、段階があり、<緊急支援>の後には必ず<復興>というステージがあります。
当然、緊急支援の重要度が高い場合もありますが、それぞれのステージに合わせた支援や活動が求められます。つまり、「日本の地域課題」も「途上国の課題」もどちらも解決すべき課題としては並列です。
当然、タイミングというものがあって、私たちの町が、例えば大きな自然災害の中で、犠牲にあったとしたら、その災害の最中に「フェアトレードタウンを目指しましょう!」と声をあげるのは少し違うような気はします。
でも、災害の緊急性が弱まり、復興へと続く段階で、「フェアトレードタウン」として町を盛り上げる、という選択肢は、大いにあり得るのです。


3つ目は、「自分がしたい活動をすれば良い」という回答です。具体的には、「日本の支援をしたい人はしたら良いし、海外の支援をしたい人はしたら良い。日本でも支援するべきところがあるのはわかるが、支援をしたい先を選ぶのは自由なはず。」というもの。

これに関して言えば、100%そのとおり!
なのですが、これを「フェアトレードタウン運動」に置き換えると、少し言葉足らずな印象があります。
言うまでもなく、市民の賛同、共感なくして、フェアトレードタウンとして存続していくことは難しいです。共感し、賛同者を募ることで、活動は成り立ちます。

フェアトレードが認知され、フェアトレード商品を求める人が増えることで、フェアトレード商品を扱うお店が増え、フェアトレードの輸入量が増えるという「ムード」を作るためには、市民の「共感」はなくてはならないものだと言えます。


フェアトレードの「メリット」

もう一つ、重要な考えを学生の皆さんに届けたいと思います。何人かの方は、これから私がお伝えする考えに近い回答をしてくれている方がいました。その考えというのは、私が大学の恩師から教わった「情けは人のためならず」という言葉に集約されます。

この言葉の本来の意味は、人に対して「情け」を掛けておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味です。フェアトレードをすることも、つまるところ、自分のためでもある、と私は懐疑的な一部の市民の皆さんに伝えると思います。

というのも、フェアトレードで言えば、農薬を使わず、環境負荷の少ない、安全な農産物を手に入れることができることは「私たちのため」でもあります。さらに、搾取される人が増え、貧困が加速すると、治安が維持できず、世界平和を望めなくなると、困るのも「私たち」だったりもします。

*ちなみにこの「情けは人のためならず」には別の意味合いもあります。それは「情け」をかけることによって、その人をかえってスポイルしてしまうことを言います。貧しい人の作ったものだからと、安易に商品を購入しても、結局、商品自体に満足しているわけではないので、もう一度購入しようという気持ちが起きず、結果、彼らの生活はいつまで経っても貧しいまま、という事例です。


私の場合は、「環境も、人も、誰も傷つけることなく美味しいコーヒーを飲み続けたい」という願望が強いので、フェアトレードを選択しています。これだって、思いっきり「自己都合」です。


でも、「フェアトレードによる自分たちのメリット」を言い放って、それだけで終わらせるのは、十分ではないような気がしています。(「物事のメリットを聞いてから判断する」人は、あまり信頼できないと思っています。)


なので、最後に、私が、私自身の「フェアトレード論」の結論として、フェアトレードによる市民のメリットは何ですか?と問う人があれば、私はその人に対して、逆にこう問いたいです。


「あなたは満員電車やバスの中で、お年寄りに席を譲ることのメリットを考えますか?」


と。フェアトレードをすることは、それと同じだと思うのです。
たとえ、「あなた」が席を譲らなかったところで、あなた自身が何かにおびやかされることはないでしょう。でも、しないよりもした方が良い。そしてそれが「マナー」です。

ついでに。
7月1日からレジ袋が有料になりますが、最近、スーパーでも、エコバッグを持っている人がほとんどですよね。5年前、10年前はどうだったでしょうか。今ほど、エコバッグは浸透していなかったように思います。ではなぜ私たちはエコバッグを携帯できるようになったのか。それは私たちの「モラル(つまり道徳)」が変容してきたからです。

フェアトレード自体も、自治体や、学校教育、フェアトレード団体またはフェアトレード事業者を通じて、以前と比べると随分と普及してきたように思います。
その先には、フェアトレード自体はモラルであり、フェアトレード商品を手にすることがマナーであるという世の中になっていくことを期待を込めて、想像しています。現在のエコバッグのように、人びとの生活に、もっと、うんと、すとんと馴染む日が、来るような気がしてならないのです。