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豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.1

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News & Columns お知らせ

当社では少量から、フェアトレード及び無農薬栽培された
コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

クラウドファンディング2019

2019/07/15

豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.1

コーヒー生豆のグループ購入、皆さんとご一緒にいかがですか?


この夏、豆乃木はクラウドファンディングに挑戦します。

今日から、クラウドファンディングをしようと思うに至る経緯から、実際クラウドファンディングをして何を実現させたいのか、さらに、ご参加いただいた方に、どのようなリターンをもたらしたいと思っているのか・・・等々をこちらのブログに綴っていきたいと思います。 



「これって要するに、輸入する資金をクラウドファンディングで賄うんだよね?」


「今できていること(←すでにコーヒー豆の輸入実績あり)を敢えてクラウドファンディングでやる意味って何?」


等々、いろいろとご意見をいただきましたが、自らの思い描く「買い付け」に、クラウドファンディングが「最善」だと思ったから、挑戦したいと思います。



私が大学に入って一番はじめに教わったこと。それが、


「フェアトレードとは三方良しのこと。買い手よし、売り手よし、世間よし。」


でした。


わたしが描くクラウドファンディングも、


参加してくださる皆さんにとっても、

そして作り手にとっても、

豆乃木にとっても、

社会にとっても、

しっかりと「響く」ものになる、と自信が持てたので、今回、思い切ってチャレンジします。

何年越しの思いを、この夏にぶつけます。


◆ クラウドファンディングの目的 

こんにちは。
私は、株式会社豆乃木の代表、杉山世子(すぎやませいこ)です。


メキシコ・チアパス州のマヤ先住民がつくる「マヤビニックコーヒー」を求め、年に2回、メキシコへ渡り、生産者の皆さんと交流を重ねながら、現地よりコーヒー生豆を直接購入し、主に、全国の自家焙煎店、カフェ・レストランへ販売しています。また『フェアトレード&オーガニックコーヒー生豆 Te to Te(てとて)』というネットショップも運営しています。

>>『フェアトレード&オーガニックコーヒー生豆 Te to Te(てとて)』


 今回、私がクラウドファンディングを利用して実現したいこと。

それは、

「コーヒーを愛する皆さんと、コーヒー豆をグループ購入する!」

というものです。

グループ購入する一番の目的は、‟継続的“においしいオーガニックコーヒーを購入できることに尽きます。フェアトレードにつきまとう「貧しい生産者をフェアトレードで救う」運動では、本当の意味での継続的な取引は見込めないと思うからです。

私の夢。

それはコーヒーで世界中の人とつながることです。



メキシコへ!

アフリカへ!

世界へ!

 


私と一緒に、コーヒーをとおして世界を一緒にめぐる仲間になっていただけませんか。

そして、コーヒーを愛する皆さんが、中間業者を排除し、生産者が直接生産した分の恩恵を受けられる「生産地直輸入のコーヒーを購入できる環境」をつくることが、私たち豆乃木の使命と考え、今回クラウンドファンディングに挑戦することにします。

今回、このプロジェクトにご参加いただきたい方々は、

 ✔ 思いのある自家焙煎店のロースターさん

 

 ✔ 確かな品質のオーガニックやフェアトレードコーヒーを利用したいカフェのオーナーさん

 

 ✔ フェアトレードを推進したい皆さん

 

 ✔ すべてのコーヒーを愛する皆さん

これらの方々と、このプロジェクトを一緒に実現したいと思います。

「産地直送のコーヒーを、フェアトレード(グループ購入)しませんか?」


達成した暁には、おいしいマヤのオーガニックコーヒーを、最高の状態でお届けします。


◆ 自己紹介 



改めまして、の方も、はじめまして、の方も、今一度、自己紹介をさせていただきます。

唐突ですが、「世子(せいこ)」という名まえは、海外へ行った経験のなかった両親が、「世界に羽ばたくように」との願いを込めて、私に贈ってくれた最初のプレゼントです。私は、自分の名まえの由来を理解できるようになった頃から、「いつか、外国で暮らしたい」と思っていました。

その夢が叶ったのは、21歳のとき。青年海外協力隊として、アフリカ南部にあるジンバブエに赴任しました。

正直に言って、青年海外協力隊での派遣が決まる前は、国際協力にはまったく興味がありませんでした。というよりも、援助が必要な背景や、それに伴う仕事があることさえ知りませんでした。私は無知で、自分さえよければいいと思っていたのです。

私の家族のこと

少しさかのぼりますが、遠い昔の話をさせてください。
私の家族は両親と兄、弟の5人家族でした。

父は、個人事業主で、空調ダクトの設計や取り付けをしています。父は、家が大好きだったのでしょう。毎日17時には帰宅をして、家にいる。そんな父でしたので、仕事はそれほど忙しくなかったのか、決して裕福な家庭ではありませんでした。

「今年でもうダメ(倒産する)かもしれない」

と毎年聞かされながら、現在も現役で頑張っています。おかげで、私たち兄弟は、のびのびと育ちました。

中学・高校を経て専門学校へ。そして中退。


中学、高校では、ソフトボール部に所属し、毎日練習に明け暮れました。
高校3年生になり、部活動も引退すると、いよいよまわりも本格的に受験モードに突入したわけですが、私は、まったくと言っていいほど、勉強に集中できませんでした。

無気力で過ごす中で、私には、ふたつだけ、やってみたいことがあったのです。

ひとつは、美大の受験。
もうひとつが留学でした。

しかし、私はそこで気づいたのです。同じように美大を目指す同級生は、すでに高校1、2年生のころから、予備校などに通って、こつこつとデッサンの勉強などをしていたのです。さらに3年生の夏休みには、首都圏の予備校に泊りがけで行くなど、非常に熱心に準備をしていました。部活動を引退してから、自分の進路と向き合った私は、すでに「手遅れ」だと感じていました。同時に、(うちには予備校へ行くお金なんてない。予備校どころか、美大へ行くお金だってないに決まってる)とほとんど絶望していました。同じ理由で、(留学なんて、とてもできるわけがない)と、早々に選択肢から外していました。

結局、私は、美術の延長で、そのころに興味を抱いていた写真の専門学校へ行くことにしました。
専門学校へ行く費用は、「新聞奨学生」の制度を利用しました。こちらの制度は、学費の一部もしくは全額を新聞社が肩代わりするかわりに、在学中新聞配達業務を行うものです。

高校卒業と同時に、私は大阪へ行きました。さっそく新聞配達の研修、そして実務があったからです。
新聞社からあてがわれた風呂なし、トイレ共同、裸電球の灯る、古びた「文化住宅」で、私のひとり暮らしははじまりました。
卒業から大学入学までの一か月間、高校のクラスメイトらは、地元での残りの生活を惜しむかのように遊んでいる様子を伺い知り、一方で、私は朝3時からはじまる新聞配達の業務をこなしながら、とても羨ましく思いました。

(なぜ自分ばかり・・・)

そんな気持ちも芽生えていました。

4月になって専門学校に通うようになると、その気持ちはさらに膨らみました。
というのも、午後の2時を過ぎると、授業の途中であっても、夕刊を配るために、家に戻らなければならないのです。午後の授業、例えば、暗室の使い方であったり、コンピューターの実習など、ことごとく受講できません。だから、新聞が発行されない休刊日に、たまに授業に参加できたとしても、すでについていけないのです。

私は自分の境遇を嘆き、毎晩のように、家に電話をして

「辛い。もう辞めたい。」

と愚痴をこぼしていました。今にして思えば、母は母で、毎晩鳴る、遠くに暮らす娘からの電話に、心を痛めていたと思います。
そのような状態で、食事もままならない日々が続き、私はついに体調を崩し、たった数か月で、生まれ育った町に戻りました。新聞社への借金だけが残ったのです。

その後の2年間は、アルバイトを掛け持ちするなどして、借金を返しながら生活しました。
再び、違う景色が見たくて、なんとか這い上がろうとしていたときに、「青年海外協力隊」の募集広告を見掛けたのです。かつて抱いていた海外への憧れを思い出し、私は飛びついていました。